大田・絵堂戦役150周年記念事業サイト 大田・絵堂戦役150周年実行委員会

大田・絵堂の戦い
1、今から約150年前、近代国家の夜明けを告げる維新分け目の戦い。
  (この戦いで諸隊が敗北していたら、明治維新の姿は大きく変わっていたといえる。)

2、長州藩の内乱であった。高杉晋作・伊藤博文・山県有朋たちのクーデターであった。
  (今から149年前の、元治2年(1865年)1月6日〜1月19日の事件。)

3、戦いの原因は、 幕末の年表 
  ・1853年6月、アメリカ艦隊ペリーが浦賀に来航し、開国か攘夷かで国内が騒然となる
  ・1858年   安政の大獄始まる(吉田松陰処刑される)
  ・1863年6月、高杉晋作が奇兵隊を結成する(外国船打ち払いで打撃を受けたため)
  ・1864年7月、京都御所:禁門の変起こる(長州藩が会津・薩摩兵に敗れる)
  ・ 〃  7月、第1次長州征伐の命が下る(長州藩が禁門の変で朝敵となる)
  ・ 〃  8月、 米・英・仏・蘭四か国連合艦隊の報復で下関前田砲台が占領される
  ・ 〃  9月、 長州藩の政権が、改革派(正義党)から保守派(俗論党)に代る
  ・ 〃  11月、長州藩は幕府に謝罪して、家老の益田・国司・福原を自刃させる。
  ・ 〃  12月、逃亡していた高杉晋作が長府功山寺で決起する(遊撃隊など80人)
  ・ 〃  12月、萩政府は、諸隊追討令を発し改革派の弾圧を強め、家老清水を切腹
  ・ 〃  12月28日、萩政府の諸隊鎮静軍1200名が明木まで進軍
  ・1865年1月6日夜半、諸隊が絵堂の萩政府軍本陣を夜襲し、大田・絵堂戦役始まる

4、長州藩の政府軍(侍の隊)と諸隊(下級武士や農民の隊)が戦い、庶民が武士に勝利した。
  (新しく西洋式の訓練や銃器を具えていた諸隊が勝利)

5、民衆の思いは。
  奇兵隊などの諸隊に対し、維新を願う農民・町民が協力した。
  ・『正俗戦争記』には、「大田百姓并近辺の男女小児ニ至迄、夫々向々の手伝致ス事、実に難尽筆紙ニ候」とあり、
   子どもから大人まで、男女を問わず協力したことが分かる。
  ・秋吉では、諸隊進軍(8日か)の折り、近隣の農民(目畑からも)が炊き出しを行っている。
  ・平原では、諸隊見回り兵が、梅木が通行の邪魔になるので伐採しようとしたが止めた。
  ・山口・小郡の庄屋達(吉富、林)の金銭・食糧の支援があり、人夫1000人余りが大田に来るが、
   下秋・温湯の伝承では、民家に宿泊させて、家主は野外に寝たと伝う。

6、明治新政府は、鎖国の徳川時代からわずか10数年でアジア唯一の近代国家をつくりあげたが、
  大田・絵堂戦に参加した若き人達がこの原動力となった。
  (伊藤博文、山縣有朋、御堀耕助、山田顕義、品川弥次郎、野村靖、三浦悟楼、堀真五郎、佐々木男也、等々)

 大田・絵堂戦役は、たまたまこの地域で起こった事件であったが、我々先祖の協力があって新しい時代が
スタートしたことを、「みとう⇒みね」の誇りとして、子孫に語り継ぐ必要があろう。
−明治維新の流れ−
 嘉永6年(1853)6月、ペリー率いる米艦隊が浦賀に来航して以来、国内は開国か攘夷かで騒然となり、日米修好通商条約の締結や将軍後継問題などで、安政の大獄と呼ばれる粛正が続き、やがて大老井伊直弼が桜田門外で暗殺されるなど、不穏な政情となった。
 勤王か佐幕かで、国の政治は混沌とし、もはや幕府のみでは政局が乗り切れず、雄藩が政治に参画するようになった。政局の中心も京都に移り、諸藩や脱藩浪士が割拠するありさまとなった。
 文久3年(1863)5月10日、幕府はやむなく攘夷決行を命じたが、長州藩は率先して下関海峡の外国船を砲撃し、過激な攘夷を繰り返した。光明天皇が穏健派の公家の進言により、革新派の公家七卿や過激な長州藩を京都から追放するという8月18日の政変が起こり、京都守護職(松平容保)や新撰組による過激派浪士の取り締まりが強化されていった。
 元治元年(1864)6月には、池田屋で長州藩士などが暗殺され、京都御所の警備を解任されていた長州藩は、藩勢の挽回を図るべく京都に進軍するも、禁門の変(蛤御門の変)で薩摩・会津軍に敗退し、朝敵の汚名を被ることとなった。
 さらに8月には、下関海峡で米・英・仏・蘭四か国艦隊から報復攻撃を受けて前田砲台が占拠され、幕府は長州征討の命を発して征長軍が広島まで迫り、長州藩は内外共に危機的難局を迎えた。
 長州藩では、これまで藩政を担っていた革新派(正義派)に代って、保守派(俗論派)が政権を握り、幕府に謝罪恭順として益田・国司・福原三家老の切腹や革新派の弾圧を強化していった。
 元治元年(1864)12月16日、筑前の野村望東尼山荘に逃亡していた高杉晋作は、ついに長府功山寺の五卿の前でクーデターを決起した。この時同調しなかった奇兵隊など諸隊も、藩からの解散命令や諸隊追討令を受け、23日には家老清水清太郎が切腹となるなど、ますます弾圧が強化されるのに反発した。26日には諸隊鎮静軍が萩を出立した。これを受けて諸隊はついに一戦を覚悟し、元治2年(1865)正月6日夜半、赤間関街道中道筋を粛々と進軍し、絵堂の萩政府軍本陣を夜襲して開戦の火蓋を切った。
 大田・絵堂戦役は、正月16日までの10日間の戦いであったが、近代兵器を装備した諸隊が、民衆の支援を得て勝利し、長州藩は再び尊王攘夷を掲げて武備恭順とし、後には倒幕の道を歩むこととなった。
 大田・絵堂戦役は、逆転しかけた歴史の歯車を危機一髪で回天させた、明治維新先駆けの戦いとなり、近代国家の夜明けを迎える意義ある戦いであった。
(池田善文)

大田・絵堂戦前夜−諸隊の進軍と萩政府の動き−
長府から伊佐市へ
 元治元年12月16日、諸隊は御楯隊を残して伊佐への転陣を決めた。しかし、人夫の不足で寺へ止宿し17日長府を出発。奇兵・八幡・南園隊は三条西季知・四条隆謌の二卿を護衛して吉田宿に2泊。19日に伊佐に到着した。膺懲隊は四郎ケ原に宿陣。
 伊佐市では、大庄屋格で酒屋池田猪右衛門邸を本陣とし、二卿は表の方へ、隊員は裏の部屋に宿陣した。二卿の接待役に隣家の古浅おとく13歳が抜擢された。山県狂介は伊佐村庄屋を勤めていた村上助右衛門邸(元野村酒場:現在本陣跡の標柱を設置)、陣場奉行の天宮慎太郎は西原邸(元小竹菓子店)に止宿し、鉄屋(中元医院付近)から正隆寺一帯が諸隊の宿営地となった。武器弾薬は紙屋(西田材木)の裏倉庫に置き、演習は徳定で行った。河原宿の勝ノ屋には福田侠兵が宿営した。24日は大雪。

萩政府の動き
 萩藩政府は、元治元年(1864)12月24日に毛利宣次郎(厚狭毛利)を諸隊鎮静軍の総奉行に任じた。26日、粟屋帯刀を将として諸隊鎮静の先鋒隊1200名が萩城下を出立し、28日絵堂宿の庄屋藤井弥伝次邸(後の柳井邸)を本陣とし、別働隊の財満新三郎が一ツ橋に駐屯した。27日には鎮静軍後軍児玉若狭1200名が赤間関街道北浦筋を三隅に進軍。28日、毛利宣次郎総奉行等鎮静軍本隊は、1400名が明木に本営を構えた。

諸隊の動き
 26日、高杉晋作等を追討する兵200人が絵堂まで進出したとの風聞に諸隊の者が騒ぎ立てた。もし、伊佐通行の時には、迎戦するとして南園隊が先鋒として河原宿に繰り出した。
 20日諸隊に同行していた三条西季知・四条隆謌の両卿は伊佐を出発して萩へ向かおうとしたが、諸隊が押とどめた。萩城下に幕府の監察使が来ているので、諸隊が警衛として城下に入ると戦いとなり、両卿の身の安全も保障されないとした。22日、藩主の名代益田孫槌が重ねて出萩を拒んだ。両卿は27日の早晩、古浅おとくを同伴して伊佐を出立し、山中・厚狭を通り、夕暮れには長府功山寺に帰り着いた。
 長府に滞陣していた御楯隊は、28日に四郎ケ原宿まで隊を移動させた。また、萩本営に居た南園隊は脱走した。29日に伊佐の奇兵隊銃隊・狙撃隊、南園隊、八幡隊銃隊2隊が河原宿へ移動し、首脳会議を開いた。
萩政府からの使者と諸隊の対応
 27日、藩政府から使者として武藤又兵衛等が伊佐到着。馬関に居る高杉晋作等の遊撃隊を追討するので鎮静軍を通すように指令し、また諸隊に対して武装解除をして徳地へ引っ越すよう命じた。これに対して諸隊は、追討軍の通過を拒否し、北浦を廻れと回答した。また、正月1日、萩から勝田甚四郎・楢崎一太郎が伊佐に到着。諸隊の総督(奇兵隊の天宮慎太郎・林半七、南園隊の滝鴻二郎)等へ、退去と兵器の返還を命じた。総管等は、軍監書記とはかり、山県狂介(有朋)の意見に従って使者を欺くことにした。「退去は謹んで命を受けるが、隊兵の兵器を一時に返還することは困難であるので数か所に分けて命に従うので、正月3日までの猶予…」を求めた。使者は諸隊がすんなりと命令に従うものと思い喜んで帰った。

諸隊の動き
 元治2年の元旦、二卿の付き人であった中岡慎太郎は、河原宿で奇兵隊の面々と酒を酌み交わしていた。中岡は2日に伊佐宿に行き、佐世八十郎(前原一誠)が馬関より昨夜から来ていたので面談した。5日には再び河原宿に行った。河原宿には正月6日から宿の専正寺を本営とし、隊員は宿中に分散して止宿していた。
 元治2年正月6日夜、にようやく追討軍の撰鋒隊士山本伝兵衛・楢崎幾太郎・勝田が使者として兵器返還の催促にやってきた。諸隊は「遠路のところ、寒さといい、今晩の御出はさぞさぞ難儀であったろう」として、使者を町はずれの三隅八兵衛宅(伊佐下村)へ連れて行き、珍味を尽くし酒希をもてなした。宴半ばを過ぎて「今夜に至り器械を預るなどとは諸隊各中を憚らず嘲弄なさる気か」と一喝して使者を追い出した。使者の一人は大津へ、もう一人は伊佐から真名→長田→大石→佐々並を目指して帰還する。
 この間、河原宿にいた諸隊は、天宮慎太郎を斥候隊司令として、奇兵隊2隊・南園隊・八幡隊2隊・(庸懲隊)の約150〜200名が河原宿を出立して、赤間関街道中道筋を北上し、絵堂宿へ向けて進軍を開始した。道行く人は木に縛り付け、行軍が漏れないように用心をしたという。
(大田・絵堂戦役150周年記念事業実行委員会ガイドブック部会)

大田・絵堂戦開戦
絵堂野開戦
順次更新していきます。次回をお楽しみに!

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